アイデアを出すときは「変えるべき点」と「変えてはいけない点」のバランスを持つべし

何かお題を与えられた時の「どうやって乗り切ろう」「どう工夫しよう」という問題、悩みをどう乗り越えるか。それは我々人類の生き様の表現である。

 

母はよくコロッケを作ってくれた。僕たち家族が食卓に集まる頃に合わせて揚げてくれていた。母のコロッケはいつもホクホクだった。が、悲しいことに僕はコロッケが好きではなかった。なんだか損をした気がするのだ。逃げてはいけない、はっきり言おう、損するのだ。まだ熱を帯びて湯気だっている衣に箸を刺すと聞こえる「サクッ」という音に格別の愉悦を覚えた後、口に入れて噛む。箸を通した時に聞こえた音は口の中でも再現される。「さあ、味わってやろう、其方は何者だ?」気分は王である。王なのだ。揚げ物とは贅沢品なのだ。さて、今宵はカツか?はたまたメンチか?期待は高鳴るばかりである。そして直後に覚える「ジャガイモじゃねえか!」というチープさが今までの感動を裏切るのだ。王からの失脚である。芋て。茹でた芋を特殊な器具を用いて叩き、すり潰して肉を練り込んだ後に何を思ったか楕円状に形成するのだ。こんなにも面倒な行程を踏んで出来た物が芋感のバケモノである。何よりご飯に合わない。これが一番の問題だ。なんならこちとら白米を食べたい一心で生きているまである。おかずは白米をかき込む為の口実である。それが芋て。

 

とはいえ、母が丹精込めて作ったコロッケである。決して卒業アルバムをぼんやり眺めながら「はぁ…戻りたい」と呟いて作ったコロッケではない。僕も誠意を持って食べる。しかし、ある日、我が家に事件が起こった。

 

それは突然だった。きっかけは僕の「さすがにもうコロッケは飽きた」という一言だった。それから数日後、母は何を思ったか「今日のコロッケは特別よ」と言ったのだ。食卓に運ばれてくる大量のコロッケ。「コロッケは飽きた」という僕の発言は、母を「飽きないコロッケ作り」へと向かわせてしまった。特別なコロッケとはなんだろうか。僅かながら期待を持った。巷で噂のカニクリームコロッケが出てくるのか、はたまた中身が牛肉100%、オンリー肉のコロッケか、と思いながらサクッと音のするコロッケを口に運んだ。

 

里芋だった。

「芋の種類でなく!」という僕の怒号に母は驚いていた。僕が内弁慶へと転じる偉大な一歩であった。

 

何か物事を工夫する時に、「変えるべき点」と「変えてはいけない点」を見誤ってはいけない。大枠は変えてはいけないのだ。その後、母は僕の意見を聞き入れる事無く「そら豆のコロッケ」を食卓に出してきた。なんだそれは。芋ですらない。概念。コロッケの概念を覆してきた。母もまた偉大な一歩を踏み出した。「今日はそら豆のコロッケよ」とコロッケの前にわざわざそら豆を持ってきて、もうコロッケは芋であるという前提を少し認めている感を出していた。

 

それから何年もして、コロッケ戦争も幕を閉じた。もう我が家では通常のコロッケは出ていない。もちろん里芋も、ましてや、憎きそら豆などあの一度きりだ。ここ5年ほど我が家のコロッケはジャガイモにカツオが混ぜ込まれているものだ。なんだそれ。しかも美味しいし。